幌北今昔&ギャラリー

ほろきた今昔物語 〜幌北ってどんなまち?〜

この地区は、創成川と北大構内に挟まれた地区で、昔は鉄道の北側に位置していたため「鉄北地区」と呼ばれていましたが、街の発展とともに二つの地区に分割され、札幌駅の北側から北11条までを「鉄西地区」とし、北12条から北24条通りの南側までを「幌北地区」と改められました。
私達が住んでいる幌北地区に、愛着を持ち誇りを持つためには、幌北を知ることが大切です。幌北地区の歴史や現在に至るまでの変遷を調べてみました。


現在の幌北小学校

旧幌北小学校

 


現在の北辰中学校

旧北辰中学校

<幌北地区の特性>


札幌市内には88の地区があります。その中で幌北地区が一番になっているものが3つあります。
それは、「住民の平均年齢が40.3歳で、一番若い地区」であること、「学生が一番多く住んでいる地区」であること、そして「外国人が一番多く住んでいる地区」であることです。これらは、幌北地区が、北海道大学をはじめ大学・短大が3校あるほか、専門学校も数多くある文教地区のためです。

<北大との深い関わり>


明治2年、蝦夷地を北海道と改称して開拓使が置かれました。その7年後の明治9年に、北大の前身である「札幌農学校」が時計台付近に開校され、当時原野だった幌北地区周辺は同校の農校園とされていました。
札幌農学校は、後の明治36年に北8条西5丁目(現・北大構内)の新校舎に移転し、その後、明治40年に東北帝国大学農科大学に昇格し、大正7年に「北海道帝国大学」になりました。
明治19年、北海道庁が新設され、この年に制定された「北海道土地払下規則」により、農校園が大幅に縮小され、幌北地区は民間に貸し下ろされることになりました。

<鬱そうたる原野を開墾>


明治20年、新潟県北蒲原郡の豪農「平田多七」が、5年間の期限と条件付きで無償貸し下ろしを受け、約100ヘクタールの広大な土地に洋風馬耕農法による北海道の模範農場を目指して、鬱そうと樹木の生い茂る中に仮小屋を建て、厳しい開墾の歴史が始まりました。
後に道庁から有償貸与されたこの土地は、「平田類右衛門」に引き継がれていますが、この「平田農場」が宅地として売り出されるようになった経緯については詳細不明です。

<札幌初の大型分譲地>


大正時代に入って、この広大な土地が「京都合資会社」の手に渡り、札幌最初の区画整理された大型分譲地として売り出されています。
大正8年当時の『札幌区京都合資会社新市街宅地図』と『区画図』(北15条〜24条)によると、条丁目の中通りに至るまで現在と全く同じに区画整理されています。

<発展を続ける幌北地区>


大正10年には北大付属病院が開設され、昭和2年には市電「鉄北線」が北18条まで乗り入れ、27年には北24条まで延長されました。その後も次々に延長されていきましたが、昭和46年に翌年開催される冬季オリンピック札幌大会に向けて地下鉄南北線(真駒内〜北24条)が開通したことに伴い市電は全面撤去され、地区内には3つの地下鉄駅が設けられました。
この頃から、幌北地区は札幌市の中心部に接する地区として発展し、地区の北端である北24条界隈は、第二のススキノと言われるような繁華街に変貌しています。
また、地区の発展に大きく影響を与えたのは、昭和63年の札幌駅鉄道高架の完成と平成10年の札幌駅北口広場の完成、平成13年の環状通工ルムトンネルの開通があげられます。
昭和47年に、札幌市は政令都市に指定され、当時人口13万で発足した北区も、現在は28万人となり、札幌市最大の区として発展を続けています。